二・二六事件をわかりやすく解説!青年将校のクーデター、そして処刑のその後を追う。

事件・事故
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1920年代の日本における陸軍内の皇道派と統制派の対立が引き起こした二・二六事件の背景から、クーデターの首謀者まで詳しく紐解きます。

また、事件後の生き残りの苦悩や遺品の現在についても探ってみます。二・二六事件の真実とその影響について、興味深い一面を明らかにします。

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二・二六事件とは

1936年、二・二六事件が発生した時、日本ではどのような状況が起こっていたのでしょうか。この記事では、2・26事件に至るまでの歴史的背景と共に、若き将校たちが2・26事件に至るまでの経緯と、写真と共に事件の様子、昭和天皇の反応、若き将校たちが2・26事件の後に辿った過酷な人生について紹介します。

二・二六事件の概要

2・26事件がなぜ日本で話題になったのでしょうか。詳細は知らなくても、一度は聞いたことがあるはずです。ここでは、そんな事件を解読し、一緒に学んでいきましょう。

若き軍人によるクーデター、2・26事件

この事件は、1936年の2月26日から2月29日までの3日間に起こったもので、若き軍人が東京の一部地域で軍事的な行動を起こして反乱を始めた事件として位置づけられています。そして、この反乱によって多くの人命が失われたことも事実です。現代では考えられないような武力行使が行われたことに驚かされますが、なぜここまで行かなければならなかったのでしょうか。

2・26事件発生後、3日で収束

この事件はわずか3日で一応の収束を見せましたが、この後、いくつかの人々が戦争反対に前進する機会として利用したとする説もあります。しかし、そう感じる人々よりも解釈が多いため、この事件が現在の政治の基盤を確立し、その下地を作るために食料として利用されていると言っても過言ではありません。

2・26事件:陸軍「皇道派」と「統制派」の対立

2・26事件に最初に関わった人々の中には、「皇道派」と「統制派」に分かれて歴史を覆す人物も現れました。これらの事件にも多くの犠牲者が出ましたが、非常に大きな話題となった事件です。では、皇道派と統制派の違いは何でしょうか。

皇道派の思想

皇道派は、君主自らが政治を行うという考えに同意し、賛成していた集団です。特に、若者たちであったため、知識人ではなく自ら行動することが必要でした。そうしなければ反乱を起こす力もなかったでしょう。

統制派の思想

では、皇道派の敵となった統制派はどのような集団でしょうか。この組織は、皇道派の行動を抑え込むために作られたもので、非常に合法的な方法で軍事的な行政を築く計画でした。

目指す場所

彼らの目標は、国家の総力戦によって守られる国家を長期的に創り上げ、それに対抗する十分な力を得ることでした。当時の軍事力を低下させることもあり、兵器や装備の質の向上を余儀なくされたため、軍事力を縮小しても良いという意見もありました。

2・26事件は皇道派の若者によって引き起こされた

この有名な事件は、皇道派の若い将校たちによって引き起こされたと言われています。そして、事件が起き、世界に知れ渡るまで進んだのですが、目標であった軍事行政を確立することはできず、それに関与した若き将校たちは処罰されました。

2・26事件に至る背景

ここまで話してきたことから、皇道派と統制派がなぜこのような反乱を起こしたのかが分かるはずです。しかし、このようなことが起きる必要があった背景とは何だったのでしょうか。それについて話していきます。

大恐慌の影響で日本は打撃を受ける

当時、世界の経済状況が急速に悪化していました。その結果、日本も本来好調であった経済状況が、日露戦争の影響で急激に低下しました。こうした状況の中で、農村の人々は生活を送ることができなくなりました。その結果、多くの犠牲が出ました。

農村の飢餓

経済状況が悪化すると、生活が送れなくなることも当然です。食料がない状況が続き、人々は最後の手段に訴えざるを得なくなりました。しかし、都市部と農村部ではかなりの格差があったと思われます。

また、皇道派の多くの人々は徴兵制度のために農村部出身であり、自分たちが住んでいる地域の厳しさと比べるとおかしいと感じたのかもしれません。そこから日本の政治が変わるべきだとする声が大勢出てきたため、反乱が勃発したのでしょう。

飢餓と利己主義

誰もが飢えを耐えることはできないでしょう。しかし、この時期、農村部ではすでに飢えた人々が溢れていました。しかし、何もできない人々は自ら売り飛ばす行動に出るようになりました。これはかなり迷惑な話ですね。

しかしながら、自分が生き抜くためにはこのような残酷な手段を取らざるを得なかったのです。自らを売り飛ばすよう懇願した人々もいたことでしょう。しかし、誘拐などの状況での人身売買が起きていた可能性があるということも見ておくべきです。

第一次世界大戦後の軍備縮小の動き

日本の軍事への姿勢は、元々第一次世界大戦に備えて整えられたものでした。そのため、この勝負が終わったら不要になるという考えがありましたが、現在、この状況に不満を感じている人々もいます。

陸軍費削減が不満を招く

陸軍の力が低下することになる、すなわち軍に備えていたものが削減されたという考えが広まってきました。これは、軍事費の削減が大幅に行われたためです。これにより反対意見を示す人々もいたため、多くの不満が重なったとされています。

政治不信と尊王討奸(ソンノウトウカン)

これまで述べてきた地方の出来事に不満を持つことで、日本の政治について再考するようになりました。また、それにより飢餓に苦しむ人々や自らを売りさばくことを余儀なくされた人々が存在したことも影響しています。

これまでは、政治に関与する富裕層が行っていることや、そうした状況下で一般の人々が平和な時間を過ごしているといったことが当たり前のように行われていた一般市民たちも、再び動き出しました。

これを尊王討奸(ソンノウトウカン)と呼びます。

『その後』戦争も権力批判も終わらない

この運動の目的は、皇帝が進める政治を完成させるために、自己の欲望だけに揺れ動く政治に関与する人々をなんとか打ち負かすことです。

『2/26事件』2/26 5時 クーデター発生

この見出しでは、2/26事件をさらに詳しく探っていきます。2/26事件は非常に早い時間、午前5時に起こりました。なぜこの時間に集まったのか不思議ですが、この事件に関与した人々にもより詳しく注目してみます。

2.26事件 実行メンバー1500人

この事件に関与した人数は約1500人と数えられており、比較的高位の将校が20人、現役でない元将校が2人、非現役の将校が88人、下士官が88人、副官が1人、一般兵が1,357人とされています。メンバー数は多くも少なくもありませんが、非常に重要な人数であったことがうかがえます。

2.26事件の首謀者

青年将校を中心に下士官や兵士たちが主導し、数人の政治家を殺害し、政治を新たに変えようと行動しました。しかし最終的にはみな処刑され、事件は終結します。

2.26事件の犠牲者たち

この事件により多くの犠牲者が出ましたが、19人の将校が終結直後に処刑されました。また、高橋是清や斎藤実など、首相経験のある重要な重鎮と警察官5人の貴重な命も奪われました。

首相官邸の占拠など

この後、高橋是清や斎藤実などの首相を皇道派が暗殺する計画が立てられ、国会議事堂周辺に建てられた首相官邸が占拠されました。しかし、皇道派がここまで進んだにもかかわらず、戒厳令によって正統派に鎮圧されることとなりました。

通信網統制

首相官邸が占拠された場合、何が起こるのでしょうか?恐らく大物たちは多くの重要な人物や情報を所持しているはずです。つまり、それを占拠されることで敵がその情報を手に入れることが可能となります。これから考えると、その情報を入手したことで首相と同等の統制下で行動できる可能性もあります。

戒厳令

これは天皇が布告する法律で、緊急時や戦時、何らかの争いが起きた場合に使用する必要があるか、通常時の立法権・行政権・司法権の使用を許可したい場合に使用する法律で、通常時の政権が軍に委ねられる緊急事態下で使用される法律となります。

『2/26事件』天皇陛下の一言でクーデター鎮圧

それでは、この事件がどのようにして収束に至ったのでしょうか?結末にはかなり大きな話題や事件があると思われるので、裏で何か大きなものがあれば収まることはなかったでしょう。では、収束に至る経緯を見ていきましょう。

天皇陛下が2/26事件の報に激怒!?

事態を収束させることができたのは、皇帝自身の意見のおかげであり、全てはそれによって終結したのです。昭和天皇は基本的に政治については口を出さないことにしていましたが、この事件により自身が最も信頼し期待していた軍の人物が亡くなってしまったことにより、皇帝自身も許せなくなり、自身の意見を示す機会となりました。

「長きにわたる腹心を殺害する神(じん)に対する許しはない!私自身が親衛隊を率いて制圧する!」といったようなことを皇帝が言ったとされています。この発言が事態の収まりを促すきっかけとなりました。

「陸軍大臣告示」そして裏切り

2/26の「陸軍大臣告示」によると、公には皇帝によって「賊軍」や「反乱軍」と呼ばれるなどと裏で呼び名をつけられたことに対して、新たな革命を皇帝中心に目指していたのにもかかわらず、裏切りを感じた人々も多かったのではないでしょうか。

陸軍大臣告示

「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」「諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」「国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ」

といった言葉が陸軍大臣布告が発表された際に記されたものです。

また、戒厳令指揮官を務めた樫井湖兵衛中将も皇道派信仰を持っていたものの、こうした法令が発せられた際には自らの有利に立ちたいために首相と和解するなどの行動を取っていたとされます。そのため裏切りのように見える行為も多数行われたと言われています。

2.26事件鎮圧

この数日間で起きた出来事は、皇帝の協力を得て比較的簡単に鎮圧されました。しかし、その方法も軍事力を使用するという方法でした。皇帝によって反逆者と認定され、敵の対象になった皇道派は大きな悲しみに満たされたはずです。

2・26事件のクーデター後| 陸軍の政治指導

その後、どういった政治情勢が起こったのかご存じですか?クーデターに勝った統制派としては、当然政治情勢も動くはずです。ここでは、その主導的な展開を紹介していきたいと思います。

皇道派の理想に反し、統制派主導の政府へ

皇道派が敗れたことで、統制派が好き勝手にやりたい放題の政策になりました。統制を回復すると共に、政治を新たに革新することを志向していたんですね。これはつまり、軍の存在感を強める必要があるということです。

そのため、政治に関係する発言が活発化するにつれ、軍にも発言機会が多く与えられることになりました。統制派も精鋭集団の集まりだったため、彼らが発言しにくかった問題も浮上したと思われます。

2・26事件後、軍の発言力が強化される

発言力が強化されることで、恐ろしいことも起きました。それはまるで軍が何をしても良いと言っているくらいのものです。もし本当にそうならば、暴力行為はもちろん、武器で強制的に鎮圧されることを恐れたはずです。このことに反対した人々はためらったのでしょう。

太平洋戦争へ

前述のとおり、統制派の発言力が強化されました。しかし、これが引き金となり、後に有名となる太平洋戦争に進展する機会となりました。戦争には強大な軍事力が必要です。

つまり、2・26事件後に少しずつ力をつけていった軍事力は、太平洋戦争に対抗する程の力を持つようになったのです。もし統制派よりも皇道派のほうが力を持っていたならば、日本は太平洋戦争に関与しなかったかもしれません。

クーデターの首謀者逮捕・処刑

命を捧げた事件にはきちんと意味があったとはいえ、彼らがどのように処罰されたのかも気になりますよね。ここでは事件後に起こった出来事を紹介します。

7月12日、首謀者が処刑される

この時期に主に活動していた人々の裁判が行われることとなりました。北一輝、西田税、沢崎らの裁判は後に行われたので、その目的に必要な証人として磯部や村中は取り残されることとなり、その他の将校15人が処刑されました。

非公開の特別法廷での裁判

彼らの裁判は行われ、判決が下されたのですが、公開されることなく弁護士をつけることも叶わず、判決は一審のみで決定されました。これでは裁判の意味があるのかとも感じてしまいます。かなり厳しい判決だったということです。

磯部と村中は8月19日に処刑される

磯部は皇道派の一員で、幼少期から北一輝の下で働きはじめた人物です。また、そのことおよび磯部が中心になって事件を企画したとされ、裁判が起こされました。そして、これが原因となって彼らは罰せられることとなったのです。

民間人の西田と北一輝も処刑

磯部と村中は最終的に死刑となります。しかし、彼らは若い将校たちに「日本を救うことができるのは君たちだけだ」「最良な人物はお前たちである」と伝えましたし、彼らは今まではあきらめていた日本の政治について前向きに考えられるようになったとも言われています。

彼が北海道で有名なクラーク博士の「Boys Be Ambitious(ボーイズ・ビー・アンビシャス)」に出会ったことで、これらのことについて考えはじめたとされています。彼の言葉は古代から受け継がれてきたものですね。

恨みいたらを書き残した「獄中日記」

磯部のほか、アクションクロニクルやプリズンノートなどに取り組んだものの中でも、「刑務所日記」が皇帝への不遜や失態への非難が一番残されたものです。これらを続けて読むことで、過去の皇帝がどのような行動をしていたのかについてより詳しく学ぶことができます。

射殺とほぼ同時に近くで演習を行っていたとされる

北一輝や西田が拳銃で射殺された時には、ちょうど軍が演習を行っていたと言われています。その時に放たれた銃声が漏れなかったとされ、彼らは密かに演習を行い続けていたそうです。かなり怖い話ですね。

2・26事件の生存者たちが辿った悲惨な人生

この時期に多くの人々が命を落とし、犠牲になったとされます。しかし、彼らの中には生き残った人々もいます。しかし、彼らはその後の人生でどのように感じていたのでしょうか?日本は目指した目標からは異なる姿になってしまったのではないでしょうか?

クーデターだとは知らなかった

昔の兵士たちは、自らの意思でこれらの事件に積極的に加担したわけではありませんでした。上司から指示されなくても従って行動したという事実があるんです。私たちは「上位の立場の人間からの指示は天皇陛下からの指示と同じものと考える」と教育されていたので、反抗することもできない立場にありました。

戦線に派遣される

事件は終結し、生き残った者たちは満州に派遣されました。その後の出来事はよく知られていませんが、おそらく彼らは満州で血を流し、奮闘を続ける苦しみを味わったのでしょう。

多くの人々がさまざまな場所に派遣され、異なる場所に続々と派遣されていきます。もちろん、それに伴って多くの死者も出ています。この事件によって皇帝から海賊軍と呼ばれたとされ、彼らに生きる道を与えなかったことはわかります。

戦争終結まで監視下に置かれる

無実の者にとっても非常に残酷な結果となった事件でした。事件が収束するまで兵士たちは捕らえられ、その上で捜査を強要されました。事件が終わった後も、彼らは肉体的・精神的な拷問のようなものとして監視され続けました。

そして、ほとんどの人々は自分たちが軍に所属しているとは言わなかったでしょう。法を犯していても、上官に従うだけで同じ罪とされることはできないと止めることは不可能であり、どのように報いられることができたのでしょうか?

もしも二・二六事件が成功していたら?

さて、少し想像を膨らませてみましょう。二・二六事件が成功し、統制派が天皇の援助を得て勝利することとなった結果、歴史に刻まれることになりました。もちろん、それによって軍の力も増強され、多くの人々が犠牲となり、生き残った皇道派は満州に送られ、苦難を強いられました。

しかし、もしも二・二六事件で皇道派の行動が覆されていたなら、現在の法律や軍事はどのように変わっていたのでしょうか?非常に難しいですが、様々な理論が出てくるでしょう。今回は、少しだけ想像を加えながら、その中のいくつかを紹介したいと思います。

東条英機は権力を持たなかった?

おそらく、皇道派がどこかへ追いやられるか処刑されていたなら、統制派も追放されることとなり、処刑される人々の割合は増加していたと言われています。つまり、東条英機は首相になることからわずか1ミリも遠くなかったと言えるでしょう。

東条英機

東条英機は陸軍の兵士でありながら、政治の道に進むことができた有能な人物でした。そして、二・二六事件では生き残った兵士たちの番犬として行動し、個人の記録を持ち続けていました。彼らの情報をすべて暗記し、任命されたと言われています。彼は仕事に熱心な人物であったとされています。

陸軍学校

また、東条英機は陸軍学校の講師としても活動していました。彼は陸軍大学校の試験を受ける人々を上等兵や中尉の陸軍士官に配属させ、任務を軽減して勉強に励むことができるように手配したと言われています。彼は非常に愛情のある教師でもありました。まさに現代にも欲しい存在でした。

太平洋戦争が起きなかった可能性

先述したように、統制派の勝利によって軍の力が強化され、それが太平洋戦争へとつながったと言われています。これは逆に言えば、皇道派が主導権を握っていた場合、軍事力は統合されず、太平洋戦争に至らないため、戦争は起こらなかったでしょう。

昭和天皇

昭和天皇の戦争責任を追及する意見には賛成派と反対派が存在しますが、賛成派の人々はその戦争で多くの被害者が出たため、簡単に言えば、中国や他のアジア諸国、関与したアメリカ、軍に関わった人々に対する訴訟を起こしました。

これは多くの人々が命を落とし、被害を受けたためです。もっともよく知られているのは、ポツダム宣言でしょう。これは約15年もの間続いたと言われており、ポツダム宣言を受け入れないことで被害を引き起こした時期もありました。これが天皇陛下の退位すべきだという意見に疑問を抱かれ続けたのです。

戦後、天皇制廃止の動きも

先述の昭和天皇もそうですが、天皇の即位の行為が天皇自身の決定によって取りやめや禁止された事例もありました。それは日本国内の一般市民や軍に止まらず、海外でも多くの犠牲者が出たことの影響による結果です。

もちろん、誰もが簡単に想像できると思いますが、日本の最高位に立つ人々が他の人々に迷惑をかけたり、市民を守れなかったりするのであれば、立つ意味はありません。むしろ、国家が崩壊する可能性さえあるでしょう。それが事実なら、天皇のいない国も考えられたのかもしれません。

二・二六事件に関連する20の遺品が見られる施設

博物館に行ったことはありますか?かつて起こった出来事、当時使われていた物品、過去に関連する証拠などが多くある建物です。そこから本当に存在したことがわかるし、かなりの印象を受ける場所でもありますよね。

では、二・二六事件が起きた際に使用された遺品はご存知でしょうか?検索すれば簡単に見つかるかもしれませんが、今回はその遺品の寄贈を紹介したいと思います。非常に貴重なアイテムが展示されているので、興味がある方はぜひその場所を訪れてみると良いかもしれません。

鈴木貫太郎記念館

千葉県野田市には鈴木貫太郎記念館という建物が建てられています。若い将校たちがクーデターを企てたとされる黒木捨三中将の遺族から、野田市長に20の遺品が寄贈され、それが記念館に展示されています。写真を見ると、古い制服などを想像することができます。

この記念館は、遺族から提供された遺品を使って過去の出来事について語っています。写真なども白黒で展示されているため、本当に起こったことを感じる展示会です。

遺品

これらの遺品の中には、当時使用されていた黒縁眼鏡や制服、日本刀などもありますし、拠点として使用されていたレストラン用のマッチやオーナーの名刺など、過去の数々のものが展示されています。もちろん、写真も白黒であり、事件が実際に起きたことを証明してくれます。

彼らに関する本だけでなく、さらに学ぶことができるようになっています。みんなが簡単に行ける場所でもあるので、興味がある方はぜひ足を運んでみてください。一緒に日本の歴史を学びましょう。

鈴木貫太郎との関係

記念館のタイトルにも使われている鈴木貫太郎は、1945年には首相も務めていましたが、黒木捨三中将の遺族に遺品を提供する際に負傷したとされ、鈴木自身もカワイイ若い将校として黒木捨三中将に憧れられていたそうです。そして、鈴木の遺族の承諾を得た後、遺品が手渡されたのです。

鈴木貫太郎と黒木捨三中将の間にも良好な関係があり、その他の遺族たちにも続く関係があるようです。昔から代々受け継がれた関係があるとしても、たとえ戦績を挙げた仲間と思える関係であっても、こうして続いていくことがとても安心感を与えてくれます。過去をより深く学ぶ機会を与えてくれたことに感謝したいです。

苦しみを背負う若い将校の遺族

今まで皇道派や統制派についての意見や彼らが行ったことに注目してきましたが、彼らの意見だけでなく、特に近親者である遺族、親族が殺されたり処刑されたりするさまざまな状況について考える方法も様々なのではないでしょうか。

特にこの事件では多くの人々が消失してしまったため、関係者の証言を基にした真相を知るのは非常に困難です。文献などで事件が記述されていても、詳細な内容を見つけるのは難しいです。そのため、体験者や遺族からの話を聞くことは非常に役立つことです。

遺族としての苦しみ

安田善三郎氏はこの時期に協力を受け、若い士官となる優秀な兄をもっています。彼が兄が士官であることを知ったのは2月29日だったそうです。当時は村に数台のラジオがあればよかったので、情報が伝わるスピードは少し遅かったです。

そして、彼の家族はこの通知を聞いて大騒ぎとなりました。長い間親たちを困らせない兄を迎えに行ったので、驚きは大きく、母はショックで悲しみに暮れました。

善三郎の人生

彼は当時小学校に通っており、小学校にはいじめなどもあったようです。例えば、学校で休憩できる合図を先生からもらえないこともあったり、ずっと走らされることもあり、兄が人を殺し事件に関わったことが原因でいじめが起こったようなこともあったのだと感じました。

そんなことも経験したため、軍事学校の試験を受ける際、同じように見られると思い、テストに落ちてしまったそうですが、それでも見事に合格したときには喜びもありました。

幼少期の記憶

善三郎は多少のいじめといったことにも巻き込まれたのかもしれませんので、隣近所で噂されたこともあると思います。それがあると、いつも家で働く母は気にかかるようになるでしょう。

そのため、彼が結婚してからも、兄がこれをしなかったなら、少しでも母を楽にさせることができたかもしれませんし、母だけでなく両親も幸せになったことでしょう。彼は兄弟の中でも6番目の子であり、頼りになる存在となったのは、おそらく兄との事件のせいだと思います。

二・二六事件:国家を変えようとした若者たち

この事件では多くの若者が貴重な命を失いましたが、国は彼らの目指す目標には直ちに変わることはありませんでした。しかし、現在では都市部と地方の間にほとんど格差がなく暮らすことができるようになりました。
国民の尊厳もあり、天皇陛下が良き日本へと成長している過程であり、彼らが描いた国に少しだけ変わりつつあることが確かです。それゆえ、彼らにとっても良い結果が出たと言えるでしょう。これからも平和に暮らせることを大切にし続けなければならないかもしれません。

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