皆さんは「八鹿高校事件」という出来事をご存じでしょうか?
八鹿高校事件は、部落解放運動の勢いが高まった中で起こった一連の事件であり、教職員への集団暴行など70人以上の被害者を出し、2000人以上の警察官が出動する大規模な事件となりました。
事件の主犯である丸尾良昭には3年の実刑判決が下されましたが、その後も差別問題は根強く残っています。本記事では、八鹿高校事件の背景や影響、現在の状況、そして事件がもたらした問題について解説します。同和問題やその後の展開についても触れます。
八鹿高校事件とは?部落解放運動の過程で起こった事件
八鹿高校事件は、差別を受ける部落出身者が自らの安定した生活を脅かす悪習に立ち向かうために立ち上がった事件です。双方の対立には不当なものはありませんでしたが、彼らは正しくない手法をとってしまいました。
八鹿高校で起きた事件の異例な点は、被害者が日常的に差別を受けている部落出身者ではなく、教員であり、毎日生徒と向き合っていた教師たちだったということです。
背景には、団和地区への根深い差別の歴史もあり、当時の中華圏で起きた運動によって過激主義を助長した事件と言えます。また、八鹿高校事件では、平等な世界が理想であり、日々走っていると信じる生徒たちにも注目が集まっています。
八鹿高校事件の概要
この八鹿高校事件は、この差別問題が報じられ、広く知られるようになった事件です。発生前から両者の間には暗雲が立ち込めていましたが、悲しいことに、巻き込まれた高校側も助け合い、団結して登校するなどの対策をとっていました。
それにも関わらず、解放同盟側の方が予想以上に攻撃的で、多数の人数や周囲からの協力の不足などが相まって、騒ぎを引き起こし、負傷者を出してしまいました。半日以上もの間自宅軟禁状態に置かれていた教師たちは、どのような被害を受けたのでしょうか。
部落解放同盟が八鹿高校を占拠
主要な要因となった燃料問題の脅威が大きすぎ、冬に向けた準備をしながら11月に世の中が平和に戻りつつありました。そんな中、八鹿高校事件を予示するような小さな口論などという不吉なものも続いていました。
また、同じ高校であるにもかかわらず、平和で平等な世界から遠く離れた悪習を始めた生徒たちによって成功裏に設立された解放研究会の生徒たちが、明日への暗示のようにハンストを行うために集結していました。
明日の朝、自身の将来に不安を抱えながらも勇敢に学校に出勤する教師たちは、必死でした。しかし、彼らの不安が現実のものとなり、学校は気の荒い解放同盟のメンバーに占拠されてしまいました。
八鹿高校の教職員が集団リンチされる
予期していた何かに怯えて、不安な心を一つに固めた教師たちの深い思考にもついていけず、準備をしていても何らかの理由で八鹿高校事件を防ぐことはできませんでした。何故、と思いました。
答えは明白で、解放同盟が教職員の学校からの退去を妨害しました。約60人の被害者を選び、理由も犯罪もない虚偽の犯罪者として、恐ろしいリンチの舞台である同行の体育館に連れて行かれたのです。
解放同盟は服従しない者に対し容赦ない暴言を浴びせました。八鹿高校事件では、理不尽に明確に別れ、司法もかはキャ許す。この暴力行為以外にない、暴力行為はどんな場所でも許されることはないのです。
着衣を脱がせる
八鹿高校事件の被害者で、被害に遭った女教師の中には、まだ20代の若い教師もいました。恐怖に取り立てられた女教師は、強制されて連れ去られたが、勇敢にも文書に書き残すことを拒否しました。
しかし、恐らくその態度を気に入らなかったのか、解放同盟は逃げれないように彼女を取り囲み、大勢で髪を引っ張るなどの暴力行為を加えました。最後には、彼らは彼女の着衣を強制的に脱がそうとし、身体に触れる性的暴行に発展しました。
道具を使って打撃
緊張やストレスの極度により体調不良になった男性教師は、そのことを恐ろしい執行人となった解放同盟のメンバーに訴えかけました。しかし、メンバーたちは聞く耳を持たず、寝ないことを理由に教師の顔面にパンチを放ちました。
その後も、甘やかされていたり差別された一方の側が受けた苦痛はこの程度ではなく、難しい状況になるなど、薄皮の首にたばこの火が押し付けられたり、火傷が起きたこともあります。
男性は装具をつけた手で顎部を強く打たれた後、無事救出されましたが、体中にけがを負って入院せざるを得ませんでした。男性は女性に比べて道具を使った残虐な暴行が多かったです。
八鹿高校事件の被害者は70名以上
予想しない場所におかれることを避けることができないすべての人々が、八鹿高校事件の中心にいたために負傷者となりました。その結果、被害者数は70名近くに上り、そのうちの3分の1が入院を余儀なくされました。
また、悲しいことに、被害者のうち約7人については、自分たちがどれほど重い被害を受けているのかを知らずに暴力を受けたため、後遺症を残すけがを負ってしまいました。
ダメージが明確に表れていなくても、八鹿高校事件の影響は日常的な精神状態に大きな影響を与えたと言えます。
2000人以上の警察官が派遣される
八鹿高校事件では、おそらく最も奇妙な動きをしたのは警察力でしょう。逮捕のために関与した全人数はなんと2000人にもなります。そこに立ち入った警察官の数は天地の差です。しかし、全員が鎮圧のために向かったわけではありません。
数日前から暗雲が忍び寄っていた事件でありながら、警察は早期に解決するための行動を取りませんでした。その理由は共産党の存在であり、同じ敵を持つ者同士がお互いを意味していたのでしょうか。
解放同盟は正義の旗印の下で偽りの剣を振りかざし続けましたが、意外なことにいくつかの傷害や脅迫の罪で逮捕されました。2回目の提示された人数は2000人であり、その結果、7人が逮捕されたので驚きました。
阪神タイガース坂本誠志郎選手の父親も関わっていた?
八鹿高校事件には阪神タイガース坂本誠志郎選手の父親も関わっていたという噂がありますが、これはかなり確度が高いようです。
八鹿高校事件で逮捕された犯人のリストの中に、阪神タイガース坂本誠志郎選手の父親と思われる人物が含まれており、実際にその住所は阪神タイガース坂本誠志郎選手の実家の住所と一致しているというのです。
しかしご自身で語ったわけではありませんので、あくまでネット上の推測の域を出ていない噂であることは留意しなければなりません。
八鹿高校事件の裁判と判決
八鹿高校事件は、差別を受ける部落出身者が力を合わせて権利の回復を試みた全面戦争となりました。華々しい鎧の中身は、罠にはまった見事な犯罪行為でした。前章で述べたように、結果として約15人が逮捕され、裁判にかけられました。
正義を信じる勇敢で大胆な解放同盟のメンバーは、逮捕された際にも正義が適用されると信じました。しかし、司法の判断においてはそれは適用されず、すべて有罪とされました。暴力行為は、法による社会では違法です。適切な手段で権利を主張することは最低限の要件です。
裁判中には非常に注目すべき展開もあり、いくつかの被告人たちが、凶悪な行為に対して根拠のない証言をし、治療事実やけが人の証言を無視しました。
一審で有罪判決
初審では、誰もが間違っていない、双方が加害者であり、差別撤廃から生徒を軽視し距離を置いた学校の存在まで問題視された意見もあったが、結果として、起訴された全員に対して有罪判決が下された。
結局、判決上の争点は、年齢や性別に関係なくただ働いていただけの人に対して非常に理不尽な扱いであったということである。また、暴行を受けた人々の中には、骨折したり失神したりした人々もいた。
また、解放同盟と共謀していたという事実や、八鹿高校解放研究会などの学生たちが、韓国出身の教師を侮蔑的な言葉で呼ぶなどの事実も問題視された。
控訴で有罪確定
法により犯罪者となり、その罪を償うことになった解放同盟の加害者たちは、もちろん判決を控訴したが、そこで下された判決は一審と変わらなかった。
また、判決が覆されず、罪状が軽減されなかった理由は、やはりどれだけ正義が持ち上げられても、取られた手段がそれ自体悪であったからである。しかし、裁判所は一審よりも詳細な判決に関連する理由を示した。
具体的な内容は、差別行為自体が憲法に反するものであり、人間らしく平等に生きる権利の侵害を象徴しているということであった。被告人たちは事件の中で感情を完全に制御することができなかったが、彼らの主張にはおそらく誤りはない。
主犯格の丸尾良昭は懲役3年と執行猶予4年の判決を受ける
解放同盟は間違った道を歩み、正義の名誉を傷つけた。その中でも最も重い刑が言い渡されたのは、主犯とされる男性に対してであった。八鹿高校事件において、主犯格は差別に立ち向かった最初の人物であった。
しかし、丸尾には様々な影がついていた。彼は力を持った人物として差別された一族の人々の興奮を煽っていた。差別された地域の出身者であることを示す帽子をかぶっていたし、自分勝手な行動をしていた。
丸尾については、事件の前の彼の人格や周囲との衝突などを掘り下げ、詳細に紹介する。このため、主犯以下の被告人たちは、懲役1年から3年と執行猶予が言い渡された。
賠償請求では、丸尾良昭らへ約3000万円を請求
このような裁判で罪の重大さを決めたのは、やはり問題視されたのが教員たちへの攻撃行為であり、彼らをそこに連れて行き、過剰な力で押さえつけたこと、事件の被害は巨大であったことである。
犯罪が発生すると、それに応じて神通力によって刑罰が与えられる。もちろん、事件の被害者からの損害賠償を求める民事紛争が確立され、神戸地方裁判所の判決に従って、被告団体に3000万円の支払いが決定した。
部落解放運動の勢いが高まる
傷つけられる被害者を出しながらも、八鹿高校事件は現在に至るまで続く対立を印象づける対立であった。しかし、一方だけで激しい騒ぎを起こしただけでこのような大規模な事件に発展するでしょうか。もちろん、背景には二つの対立があった。
自分の身分を明確に示すために集結した激しい人々を受け皿として組織が作られ、互いに不当な扱いに立ち向かうために立ち上がった部落研究会の登場も、この頃からであった。
整った正統な道を学生たちを導き、友人と青春について話し合う場所であるべき学校建築物が、大規模な争いが予見されるほどの暴力的な請求を伴う八鹿高校事件の舞台になったのは重大な要求があったからである。
但馬地方に部落解放同盟支部が結成される
事件の発生に追い風となった差別撤廃を目指す組織の立ち上げもこの頃であった。新しい風が通ることに対してアレルギー反応を起こす保守的な人々も多いため、「歓迎ムード」ではありませんでした。そうした行動に対してやっかみを言う勢力も存在し、両者の対立が深まっていったのです。リーダー核は片山と呼ばれる人物であったようです。
八鹿高校事件に隣接してYH結婚差別事件発生
こうした弱者の怒りを決定付ける大きな事件と関連した事件によって、人の命までもを失う騒ぎが発生した。部落問題と言えばよく出てくる、二人の結婚の是非という問いが基になっている事件です。
これは、差別された部落で生まれ育った女性と、県内で高い地位を持つ父に育てられた評判の高い男性との結婚の是非を問う事件です。お互いの出自を理由にして、各自の出生を断念するよう忠告された事件でした。
差別撤廃は傲慢であると受け取られかねない、という父の過敏な発言が非常に問題視されました。また、この婚姻差別事件と同じ理由と時期に、恋人同士が引き裂かれる事件があり、悲しい愛の結果として飛び降りて死亡した娘がいた。
八鹿高校の部落出身生徒が部落解放研究会の設立を申請
同じ年代の素晴らしい若者が不当な扱いを受けて傷つけられるのを見て、正義に燃える青い心を持つ学生たちはただそこに立ってもいられませんでした。大人たちに大胆に報告するために結束する意思を示しました。
彼らが提示した武器は、大学内の部族に対する差別の撤廃を真剣に考える解放研究会の設立でした。しかし、この研究会の背景には、学校の統制を逃れ、外部組織である解放同盟の協力を受け、それを活動の拠点としていたことが示された。
部落解放研究会と教職員の衝突
このような判決を受けても、学校側がすっとおしますかという理由はありません。しかし、彼らの背後には強大な大人の力があります。ここでも、激しい非難の後、学校側は彼らの主義をゆがめることを余儀なくされました。
お互いの正義を信じる人々が対立すると、論争が生じるのは当然の摂理です。しかし、学生たちは学校の教育チームと何度も対立し、相互尊重し合い、学び合い、良好な関係を築くべき人々との間で衝突していることは悲しいことです。
この事件については、外部からの団体が立場をとることで、状況をより深刻にしたことは間違いありません。第三者の介入によって状況が収束することもありますが、境界線を定めるのは難しいです。
八鹿高校での部落解放研究会の設立が否定される
学生の自治を尊重し、協調性を育む部活動の定められた範囲を逸脱してしまいかねない活動の拠点となっている片山を中心とした研究会について、学校側は断固とした態度で認めない姿勢を崩さない。
また、解放研究会の設立が頑なに認められなかった理由は、同じ名称の正式に認められた研究会が存在していたからである。学生自身の力を借りて地域に根ざす問題を解消するために立ち上げられた正当なものであった。
ここで双方が平和に落ち着くことができれば、事件の名前ほど大規模な占有暴行事件には発展しなかったかもしれません。しかしながら、都合よく事が運ばれることは世の中の摂理ではないのです。
学校トップの疲労困憊により認可
研究会の設立を拒否されたことに対し、解放同盟は侵食の一歩を踏み出す。活動拠点の数が増えなければ問題だと言うだけでなく、学校の上層部に直接訴えを行う。ここでの手法も荒っぽかった。
一人の心が疲れるまでには十分な時間がかかることを彼らは知っており、学校の幹部を拘束する。ここでの拘束は身体的なものではなく、大勢の人々に取り囲まれ、逃げることが心理的に不可能になるような措置を取った。
力を使い果たし、強い意志を維持することが困難になってしまった同校の校長と、その後任の副校長は、彼らの訴えを拒否し続ける余力が残っていなかった。そして、スタッフとの合意で決定された設立の拒否は覆された。
八鹿高校教員らが認可に反対
学校の上層部は解放同盟の激しい攻撃に対して、受動的にしか対応できない状況に追い込まれた。しかし、直接的な被害を受けていない他の教員たちの心には疑問符が浮かんでくる。否決の決定は会議で決定されたものだから、当然のことだ。
学校にそのような組織が設立された場合、どのような問題が起こるのかはわからない。そのため、他の教員たちは上層部に再考するように訴える。しかし、同盟はそんな態度を見過ごさないだろう。
教員たちの当然の主張に対して、同盟は自分たちを嫌がらせし、出自に基づいた差別、すなわち差別を受けるに値すると主張した。しかし、強制的に設立された研究会には他の地域出身の生徒もいたようだ。
差別を受けてきた部落出身の人々
今回の八鹿高校事件をきっかけに特定の差別事件が起こったが、残念ながら日本では古来から不当な扱いを受けてきた人々が存在することは事実だ。おそらく、読者の皆さんも学校の授業などで耳にしたことがあるだろう。
なぜ彼らが差別を受けるようになったのか、他の地域との明確な違いはあったのか。この章では、問題が根付いた風習である差別の問題を少しその筋道から話してみたい。再び問題を見つめ直すきっかけになれば嬉しい。
生まれた地域
生命がこの世にもたらされる場所。それはどんな生物であっても、どんなに決めつけられない問題だ。だからこそ、生まれた地域によって富と貧の差も依然として存在する。
富の格差問題は実際のところほとんど自然発生的に起こっている。つまり、貧しい地域で生まれた人々はその環境から抜け出すことが困難であり、同じ経済状況の人々は住居環境の悪さにより移住し、貧困はより深刻化していく。
その結果、お金が足りなくて生活環境が貧弱で教育が受けられない地域で育つ子供たちの数が増えていく。結果として、「あの地域と関わらない方がいい」という考えが広まり、差別される部落が生まれるのだ。
職業評価
日本における差別部落の問題は非常に根深いものであり、遡れば鎌倉時代まで遡るとその描写が見られる。その理由として、古来から血に関わるものは不浄とされ避けられてきたからだ。
だからこそ、生理現象である女性の月経も意外にも汚いものとされ、月経中に小屋を建て、そこに月経中の女性を集めて隔離するという逸話も残っている。それほど当時は根深い考え方だったのだ。
そのため、動物を殺す肉や皮製品に関わる人々も必要であるにもかかわらず差別されていた。存在自体が忌み嫌われ、外界との交流もなかった。当時の身分制度については以下の記事で詳しく説明している。
八鹿高校事件の首謀者、丸尾良昭の生い立ち
首謀者はコミュニティに関与し、生徒たちを巻き込んで、最終的には世界に傷を残した。被差別部落の人々にとっては英雄とみなされるかもしれず、他の地域の人々からは凶暴な一面を持つ危険人物と見られるかもしれない。
彼が被差別部落の出身であるという不名誉な汚名は、ただの迷惑以外の何物でもなかったようだ。だからこそ、幼少期から強い主張で乗り切ってきたエピソードには事欠かない。
彼は時代や地域の犠牲者なのか、立場を取った暴力的な犯罪者なのか。その判断が難しくなったのは、彼の立場だけでなく、日常の言動についてもあったからだ。
丸尾良昭は被差別部落出身
変わらない人々なのに、なぜ待遇や権利に差が生まれるのだろう。差別の立場にあった人々は、きっと同じような憤りを抱いていたに違いない。もちろん、体制を打破するために立ち上がった丸尾も同じ立場にいた。
彼の出身に関連する問題は大きな障壁となっていたようだ。それを揶揄する発言に敏感に反応し、相手とぶつかることも多かったようだ。そんな複雑な思いを抱えた彼の心はきっとばらばらになっていたのだろう。
また、彼のこの意識の根底にあるのは、同じ地域出身者の生活様式だったようだ。彼らが貧しいからでも、汚いからでもなく、野心を持たずに即時の欲望に駆られて挫折してしまう様子に対して、言葉では言い表せないばかりの反発心を抱いていたようだ。
部落解放同盟が誤用していたとの噂もある
差別問題は差別側と差別を受ける側の両方なしでは成り立たない問題と言える。どの時代でも、差別する側は自分たちが正しいと思い込み、罪の意識を抱きながらも生活してきたのだろう。
しかし、丸尾はそんな人々の罪悪感を利用し、差別される立場の代表であるとは言わずに発言し、問題行動の記述が証拠として残されてしまった。自転車店の一部を脅迫する行為、仕事で喧嘩になった人物の発言をとらえ、単語を売る言葉として売りさばく差別的な発言を非難するなど、問題行動の記述が残っている。
さらに、町議会の所長の発言を誤解し、告発を行ったといった話もあるようだ。
八鹿高校事件後のマスメディアと一般の反応
デモを引き起こさず、集会を開かず、力を行使することなく学校を乗っ取って自分たちの意見を押し通そうとした、かなり異例の事件だったが、なぜかマスメディアは飛びつくことなくただ見守っていた。
その背景には当時の差別問題に対する報道のデリケートな扱いが求められていた。単純に言ってしまえば、注目を集める「悪い話」だったが、扱いづらかったため、腫れ物扱いされてしまったのだろう。
しかし、事件を知った人々からは各地のマスメディアに熱烈な反応があった。自己保身のために逃げずに、報道機関としての職責を果たさなかった者に対して、火を投げつけるような反応だった。
「暴力はなかった」と称する部落解放同盟の主張を報じる
現在も名前を変えて存在し続ける政党が、初めて解放同盟側の意見を厳しく追求し、事実に反する内容を機関紙に掲載した。内容は、力による弾圧は行われていなかったというもので、あきらかに裁判のとんでもない証言と共通している。
しかし、全ての読者がご存知の通り、これは明白な嘘だ。さすがに別の県の解放同盟も後に事実を調査し、被害があったことを認めたのだろう、という事実を彼らは知っていたからだろう。
八鹿高校事件後、部落解放同盟に対する批判も
この衝撃的な事件が各マスメディアによって知られるようになれば、批判が集まるのは避けられない理由と言える。もちろん、その定理から逃れることはなく、事件が報じられた後、力を行使し始めた同盟は批判された。
部落差別の問題は全国に散らばっていたため、関係者と他者との間には差があったのだろうか。主張の正当性よりも、結果として同盟の違法な力を伴う手段に注目が集まった。
人々に何かを訴えかける際に効果的なものを紹介する人や本は多く存在するが、その中でも暴力や激情など相手の恐怖を煽る手段を勧めるものはほとんどない。正当な手段が極めて重要である。
朝日新聞は報道しないまま、抗議の声が殺到
全国に拠点を持ち、影響力を持つ朝日新聞は、極めて行動が遅く、新聞読者から批判を浴びた。こういった深刻な事件を隠すことは、マスメディアがあるべき姿とは程遠い。
当時の新聞読者も同様に感じ、朝日新聞は500報以上の通報を受け、当時としては異例の数だった。一日中苦情と抗議の声が寄せられ、新聞社もかなり驚いたようだ。
事件から5日後、ついに朝日新聞は腰を上げたが、記事の内容は根拠のない捏造だった。事件から10年後の夕刊に特集が組まれ、当時の報道姿勢は圧力ではなく、単に「自主規制」だったと説明された。
八鹿高校生徒自治会が独自に報道
解放運動の無茶苦茶で無人的な行動が事実であることを、大人の事情での自制を知らないとして突っぱねた新聞があった。それが、悲劇の舞台となった八鹿高校の学生自治会だった。
私たちの親族がどれほど理不尽な八鹿高校事件だったか、どれほど傷ついたかが明確に記されたニュースレターが2号に渡り発刊された。大人たちの頑固な態度に麻痺した生徒たちは、自らの手で真実を知らしめた。
八鹿高校事件は組織的なものだったのか? 政治利用されたのか?
さまざまな事件に囁かれる陰謀論ではあるが、八鹿高校事件において政治的な操作があった疑惑は無いわけではない。では、この事件の発生によって誰が利益を得るのだろうか?
答えは明確に共産党だ。当時の共産党は全国に広がる平等教育に厳しい目を向けていた。その裏には解放同盟との厚い壁が存在している。
八鹿高校事件の裁判でも共産党の意思が絡んでいたことは周知の事実であり、学校の一連の対応も共産党の支持が根底にあるとされている。
八鹿高校事件と丸尾良昭のその後
政党を巻き込んだこの大騒動も、裁判の槌の音と共に一応の決着を迎えた。しかし、関与した人々や事件を知った人々の心に強い影響を与えた事実は、おそらく純粋な真実だろう。
こうした変革を強いられた関係者たちが、事件終結後にたどった道はどのようなものだったのか。また、それに関与せざるを得なかった組織の生存は、意図があったのかなかったのかに関わらず、どのようなものだったのか。
事件に登場した主要な機関である共産党と、八鹿高校、加害者と被害者の両方の人々が、運命を大きく変えざるを得なかった彼らのその後、そして一般公開用の小冊子の今後について知ってもらいたい。
「部落地名総合目録」が発行される
衝撃の書籍が各出版社から4冊も発行され、八鹿高校事件のネガティブな側面である暴力行為を取り上げ、事件外の人々に強い差別感を植え付けることを狙っていたようだ。
その中には、さまざまな企業での購入を促し、人事募集サイトで効果的な資料として推奨されたものもあった。事件の原因として解放同盟を擁護することは難しいが、決してそのような地域に住むすべての人々が危険な存在であるわけではない。
その中でも差別を受けた地域が次々と挙げられ、書籍を読んで感化された人々の非難キャンペーンが懸念された。しかし、幸いなことにそのような追い出し活動は起こらなかった。
八鹿高校事件による入学率の大幅な低下
いくら主犯が逮捕されたとしても、地元の住民たちは平和が永遠に続くとはあまり楽観的でないようだ。八鹿高校は2つの学科に分かれていたが、そこには格差が存在したのが痛いニュースだった。
普通科生徒が選ばれたエリートであり、職業学校では大学には進学できず、高等教育を受けることができず、未来の閉鎖的敗者集団となっている。学校を共有する友達とは思えないほどの酷い扱いだ。
結局、事件の影響は大きかったようで、入学希望者数も徐々に減少していった。現在、事件から40年以上経った現在でも、その影響は大きく、生徒数は当時の半分の約650人まで減少した。
丸尾良昭はNPO「部落解放人権ネット南丹地区連合」代表
罪を償い、再び市場に立ち上がった丸尾は組織を設立する。また、彼らは元々所属していた解放同盟から追放されたため、一般からの批判を招くことは許されなかったのだろう。
現在でも、丸尾は差別を受け、耐え難い人権侵害の対象となっている人々のために訴訟を提起し続けている。次は、彼らが誤った道を歩まず、世界の不条理に正しい方法で手を入れることを願うばかりだ。
八鹿高校事件の被害教師が「養父不当捜査事件」で有志に対して聴く
元八鹿高校教師たちも多大な被害を被っていたが、彼らの中には、火と圧力を終わらせることで容疑をかけられ、不当監視とも言える手法で調査されている人物がいる。
彼らは時間をかけて政治の世界に進出し、養父市議会議員選挙で名前を売ろうとしている。しかし、彼らの中にも、有権者である元八鹿高校生に送った手紙の内容に、この事件を思い起こさせる一文があると書かれていた。
それに対して当時はおしどり加減を決め込んでいた警察陣営が一気に飛び込んで来た。選挙区の住民が自己保身や隠蔽のために動くこの行動に対して、抗議の声が上がった。正常な捜査とは程遠いと批判された。
まだ残る差別問題
差別問題は、一斉に一つの部族のようにまとまっていた人々が一度に被害を受けるケースばかりではない。その中でも村社会の小さな村に由来する村八分という弊害が残っている地域があるのは驚くべきことだ。
2013年の山口県で発生した、Uターンを果たした男性を狙った悲しい差別事件を引き金にした放火事件は、多くの人々の記憶に刻まれており、感銘を受けた犯人の言葉やフレーズがいくつかある。
また、過去には村八分された男性が引き起こした事件もあり、被害者が13歳のままであるにも関わらず、村八分されていた男性に対する差別感を抱いていた。その事件については以下の記事で詳しく説明されている。
八鹿高校事件は平和問題の話題でも忘れてはならない事件
差別された村の問題は、どこか遠い過去のことのように思われ、そうした地域のない人々には他人事のように感じるかもしれない。現在は同化問題とも呼ばれ、頻繁に論争の的となっている。
そうした人々が抱える痛みを他の地域の人々が想像することは到底不可能だろう。お互いに近づいて歩み、暴力に訴えることなく、すべての人々が平等に暮らす世界に変わることを、近い将来に実現できる理想的だ。