【フライデー襲撃事件】ビートたけしの逮捕と講談社への報復。女性のその後と現在への影響

事件・事故
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ビートたけしと「軍団」と呼ばれる彼の取り巻きが講談社への報復として行ったフライデー襲撃事件が1986年12月9日に発生し、ビートたけしは逮捕されました。

この記事では事件後の取り調べや判決、ビートたけしの活動再開までの半年間の休業など、その後の結果と現在のビートたけしの活動について詳しく探ります。

鍵となったつまみ枝豆や志村けん、そして話題になった「女性」のその後についても調査を行いました。

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フライデー襲撃事件とは

フライデー襲撃事件は、あの時、絶大な人気を誇っていたお笑い芸人ビートたけしとその仲間たちが講談社に襲撃をかけたことで世間を騒然とさせた事件です。

ビートたけしと当時、親交の深かった女性がフライデーの過剰な取材で負傷したことがきっかけで、それを知ったたけしはたけし軍団と共に講談社に乗り込んだのです。

今回は、フライデー襲撃事件についてご紹介します。

なぜビートたけしが事件を起こしたのか

皆さんもご存知の通り、当時絶大な人気を誇っていたビートたけしがなぜこんな事件を起こすことになったのでしょうか。また、なぜそこまで大騒ぎになったのでしょうか。

ビートたけしとその仲間が講談社に乗り込んだ事件

先程お伝えした通り、彼らは本社ビルに乗り込みました。

乗り込んだ先は当時勢いがあった写真週刊誌を出版していた大手出版社の講談社だったのです。

今回の事件の直接的な要因である不倫相手女性への取材インタビューよりも前にも、ビートたけしの妻子の入学試験の写真など、フライデーによる過激な取材があり、たけし自身もフライデーに対して激怒していたのです。

1986年12月9日深夜にたけし軍団が講談社に乗り込んできた理由

乗り込むことを決めた理由は、フライデー側の電話対応がお粗末だったためです。

それにさらに怒ったビートたけしは、初弟子である「そのまんま東」に電話をかけ、たけし軍団を集めるよう命じたのです。

3台のタクシーに4人ずつ乗り込み、深夜3時すぎに講談社に向かいました。

襲撃する予定はなかった? たけし軍団は講談社の挑発に乗ることを決めた

ビートたけしの考えによれば、相手に1発当てて一緒に飲みに行くつもりだったそうですが、講談社に到着した際にはフライデーの副編集長が空手をやっていると言い出し、他の編集部員からも挑発され、大乱闘になったのです。

ビートたけしに前科前歴が付く

当時、ビートたけしと不倫関係にあった一般女性がある記者の執拗で強引な取材で傷ついたのです。

それに怒りを覚えた彼は乗り込んできた編集部員に暴行を加え、けがをさせました。

たけしの逮捕とその後

実は、講談社の本社ビルの隣には大塚警察署があり、それに対してフライデー側が通報したことが分かります。すると、大塚警察署は連絡に応じ、私服の警察官を展開させました。ビートたけしと彼の仲間たちは、警察署が隣にあることを知るよしもありませんでした。

講談社に乗り込んだたけし軍団は逮捕され犯罪者に

挑発に乗じて、彼らはそこにあった傘や消火器で襲いかかりました。

その結果、私服警官が彼らの前に姿を現し、全員が現行犯逮捕されることになります。周りを見渡すと、制服警官も駆けつけていました。

フライデー側は怪我を訴え、当時の写真も掲載された

フライデー側は記者会見で自分たちのけがを訴えていました。彼らは執拗な取材、言論・出版の自由を持ち出し、ビートたけしとの戦いを訴えました。

実は、事件現場にはカメラマンもいなければ現場にはカメラを持った者もおらず、襲撃のシーンを撮影することは不可能でした。そのため、「事件の全貌」として掲載された写真は、襲撃のシーンではなかったのです。

たけし軍団は釈放されるも、半年間の芸能活動を自粛

一度逮捕された彼らは、逃げることを恐れる理由がないため、釈放されます。その後、TV番組などに出演していたのですが、一般からの批判を浴びるようになりました。そのため、所属事務所の太田プロダクションも対応せざるを得なくなりました。

フライデー襲撃事件の裁判判決

異例のことですが、起訴猶予がなされるまでなんと1ヶ月半もかかり、その後に判決が下されました。判決は以下の通りです。

  • たけし軍団は起訴猶予
  • ビートたけしは懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決
  • 女性を負傷させた記者は罰金10万円の判決

伝説のビートたけしの記者会見

1980年代は今のようなインターネットがなく、ほとんどの記者会見は何かを世に伝える際にテレビ番組で行われていました。そのため、ビートたけしは男らしさ溢れる伝説的な記者会見を開き、テレビで放送されたのです。

事件後の記者会見

事件後、一般から騒ぎが起こり始めたことに対応するために記者会見が開かれました。その時の時間は約10分間でした。キャプションでは説明インタビューと表記されていますが、彼らは事件を前面に出し、言い訳はせずにただ起こったことを述べていました。自分の愛する人たちを守ったビートたけしの姿勢がかっこいいと世界中で好評でした。

判決後の記者会見

懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決が下された直後に記者会見が開かれました。最後のひとことで裁判官が偽りをしないようにと発言したことに対して、記者から質問を受けた際、ビートたけしは自分自身に対して取り乱していたと語っています。

事件後のテレビ番組での活動

事件後、ビートたけしは1週間ほどテレビ番組に出演していましたが、世間を騒がせたにも関わらずテレビに出るのかということで一般から批判を浴び、自粛することになりました。そして、判決が下されるまで芸能活動を自粛していました。

たけしのエネルギッシュなテレビ番組『超ジョッキー』

1985年以降、ビートたけしが社長役で出演していた番組『天才たけしのエネルギー物語』は、番組名を『エネルギッシュTV』に変更し、社長が出張に出ていく設定をし、ビートたけしと同じ事務所の山田邦子が司会を務める形で放送されていました。

スーパージョッキー

スーパージョッキーはビートたけしの代わりに山田邦子が司会を務め、話題によってエピソードによっては所謂総合司会を務める所謂トコロジョージも参加していました。たけし軍団の11人のメンバーの代わりに大川興業やダチョウ倶楽部が起用されました。

番組が盛り上がる“エキサイトなりゆきTV番組”!タケシキャッスル

1986年5月から始まった『エキサイトなりゆき』の番組冬ン季!『タケシキャッスル』は、スタジオで作られた難関クリア型のゲームを人々がクリアする番組でした。ビートたけしの代わりに人形が出演し、影武者がたけしの顔にハリボテを被って番組を代行していました。

実際に影武者を演じていたのはラッシャー板前でした。ジェスチャーのみで声はなく、重臣役を演じていた石倉三郎が通訳も兼任していました。ラッシャー部長はたけし軍団出身ですが、事件には関与していなかったので代役を務めることができました。

活動自粛と復活

ビートたけしは、フライデー襲撃事件による精神的な負担から7ヶ月間活動を控えていましたが、人気番組「FNS夢列島」に復帰しました。

1987年、「FNS夢列島」のトークコーナーでのビートたけしの復帰

深夜のトークコーナーでは、明石家さんまとタモリがソファに座って話している最中に、ビートたけしが遅れて登場しました。3人はソファに座り、飲み物を飲み、タバコを吸いながら、約1時間にわたって様々な話題について語りました。

緊迫した場面でフライデー襲撃についての話

生のフリートーク番組だったため、明石家さんまやタモリだけでなく、スタジオには多くの関係者や報道陣のメンバーもいて、緊張感に包まれた雰囲気でしたが、ビートたけしはフライデー襲撃について話しました。

彼は酔っ払って蹴って倒れ、頭を打ち、気を失ってしまい、それが彼自身にとっても笑いの種になってしまったと語りました。

逮捕中のエピソード

復帰トークコーナーでは、休業中の様々な興味深いエピソードについても話がありました。以前とは異なり、彼らが話す内容に批判を受けるのではないかと心配するため、少し疲れていると言っていましたが、ビートたけしはその1時間の大半を話しました。

フライデー襲撃事件の影響

フライデー襲撃事件は、フライデー誌による過剰な取材から始まりました。ビートたけしの元に付いていた記者は、以前よりもビートたけしに近づき、悪いことを書かないだけで取材していた親しい知人でした。

事件の発端は、セクシャルハラスメントと受け取れる過剰な取材でした。さらに、ビートたけしが当時交際していた女性に対する取材も過剰でした。

ビートたけしの交際相手女性への取材での女性の負傷

ビートたけしは妻と子供がいましたが、当時、交際していた21歳の学生女性がいました。そのため、記者はその女性の学校前で彼女との不倫関係を強引に取材しました。

しかし、女性は取材を拒否しようとして歩いていくと、記者は容赦なく追いかけ、テープレコーダーが女性の額に当たり、女性は合計で2週間負傷しました。額からは血が出ていたそうです。

ビートたけしの怒りと講談社への抗議

自分のことを取材し、傷つけた人物がいると知ったら、誰でも怒るでしょう。ビートたけしも怒り、講談社に抗議の電話をかけました。ビートたけしは電話が苦手だったようですが、電話が苦手なほど怒りが募る様子がうかがえます。

その後の影響

事件発生前の1981年、週刊写真誌FOCUSが創刊され、5つの週刊写真誌が次々に発行される中で競争が始まりました。その中にはフライデーも含まれていました。

この事件により、週刊写真誌業界では一般の人々から多くの批判の声が上がり、過剰な取材を行った出版社と芸能事務所が衝突することもありました。また、芸能事務所はそれらの出版社が関与するドラマや映画に出演することを許さなかったのです。

出版業界も週刊写真誌の影響力が低下し、一部の誌は廃刊に追い込まれるなど、大きな影響が生じました。

フライデー襲撃事件に参加したたけし軍団のメンバー

後にOffice Kitanoの社長となる森雅之氏がテレビプロデューサーだった時、たけし軍団と名付けました。1983年に結成された際、最初のメンバーのほとんどがこの事件に関わっていました。

そのまんま東 (東国原英夫)

事件当日、弟子筋最強とされていたそのまんま東は、たけしから電話があり、講談社に行くことを告げられたという。当時そのまんま東はミステリー小説を書いていて、江戸川乱歩賞をめざしていた。

江戸川乱歩賞受賞作は講談社から刊行されるため、そこに行きたくないとのことをテレビ番組などで言っていたとのことだ。

事件当日、講談社に到着した際には、本当は行きたくないからとエレベーターに乗らないようにしようとしたが、結局最後に乗り込んでしまい、エレベーターが5階に到着すると、先陣を切って出ることになった。

そのまんま東の芸名の由来

たけし軍団のメンバーは奇妙な芸名が多いが、そのすべてはビートたけしが命名している。その千花の芸名の由来について、たけしに聞いたところ、東がそのままでいい、と言われ、そんま東となったという。

水島新太郎

水島新太郎は、たけし軍団の第二軍に所属していました。彼は俳優になりたかったが、父親である野球漫画家の水島新司がたけし軍団の仲間であるファイブスターズと話している間、ビートたけしに「ちょっと面倒見てやってくれ」と言われ、引き受けることになりました。

彼らは小坂明子と共にアイドルグループ「オボチャマ」として活動していましたが、シングルを数曲リリースした後、自然にグループは消えていきました。

つまみ枝豆がフライデー襲撃事件に参加しなかった理由

つまみ枝豆は「ガダルカナル・タカ」というお笑いコンビを結成していたため、タカと一緒にたけし軍団に参加しました。1996年には、オフィス北野所属のアナウンサー江口と再婚しました。

当時、彼はビートたけしだけを見ていました。彼は尊敬と崇拝の念を抱いていたので、ビートたけしのためなら命を捧げることさえできると言います。

現在でもそれは変わらず、妻の江口智美と結婚した際には、ビートたけしの後にするのがいいかと智美に尋ねるほど、ビートたけしを崇拝しています。

ビートたけしの配慮でつまみ枝豆はフライデー襲撃事件に参加しなかった

ビートたけしからつまみ枝豆には連絡しないようにと言われ、たけし軍団の誰もつまみ枝豆に連絡しなかったそうです。つまみ枝豆は電話が取れる家にいたのに連絡がなく、翌日になって事件のことを知り、記者会見場に向かおうとしたが、ビートたけしから連絡があり、これから先のことは自分が面倒を見るから今は何もしないようにと言われたそうです。

ビートたけしのことをつまみ枝豆というつまみでは理解してくれないだろうし、どうするつもりかわからなかったと思われる彼らの思いを知っていたため、配慮のために彼らを招待しなかったのではないかと言われています。

井手らっきょとラッシャー板前も参加しなかった

2人が参加しなかった理由を見てみましょう。井手らっきょはその日彼女の家に行っていたため、連絡が取れなかったのだとか、板前ラッシャー木村は痔のために入院していたそうです。その後、2人はケアテイカーとしてテレビに出演することになったことを考慮すると、2人は幸運な人たちと言えるでしょうか。

フライデーとビートたけしは和解したのか

ビートたけしは事件後、フライデーについて悪口は何も言いませんでした。フライデー側も制裁は無く、お互いにお金を負けたビジネスだけをしていたと言います。

一方、フライデー側では、販売部数が徐々に減少する中、ビートたけしを批判する記事を書いていますが、週刊写真誌への一般の人々の不信感が高まったことで、売り上げ部数は徐々に減少していっています。

1988年にビートたけしとフライデー編集部との草野球交流試合

1988年には神宮球場で草野球大会が開催されました。ビートたけしの初球が死球だったそうで、後に東が示し合わせと言って、その厳しさを見せつけたと語っています。

ビートたけしのカラーグラビアがフライデーに掲載された

篠山紀信が1998年2月20日に同じ雑誌にビートたけしのカラーグラビアを撮影し、掲載しました。その写真は事件の現場に編集部に来た12年後というストーリーの一場面で撮影されたものです。

これは完全な和解の象徴ですが、売り上げが低迷するフライデーと成功を収めた映画監督としても成功したビートたけしとを比較すると、ビートたけしが勝ったと思う人も多いようです。

講談社編集長だった人物がフライデー襲撃事件について語る

講談社の週刊現代の編集長である伊藤久男氏は、印刷メディアだけでは限界を感じ、写真を掲載することで信憑性のある記事になると考えました。

フライデー襲撃事件当時の編集長であった伊藤久男氏

伊藤久男氏は1981年にFOCUSが創刊された後、週刊写真誌を出版するための研究を始めました。それがフライデーです。週刊誌業界は競争が激しいため、FOCUSよりも長い時間をかけて着実に研究をしていました。

しかし、当時は個人情報などの規制が緩く、エンターテインメントと政治を取材するために40人の編集スタッフがいました。フライデーは売れ行きが良かったため、プレゼントがありました。

伊藤久男氏は過激な取材で立場を確立したのか

私生活の写真や記事、社会的なタブーにまで踏み込むことで、一般の人々から抗議を受け、週刊誌の立場を確立しました。

しかし、行き過ぎたインタビューだったため、事件の前から2人の間には溝があったとも話されています。

ビートたけしがフライデー襲撃事件後に石垣島で謹慎。後の映画制作に影響はあるのか

判決が下るまで活動停止になっていたビートたけしは、東京で週刊誌の取材を受けることを避けるため、伊豆の温泉旅館に向かいました。しかしビートたけしの移動車両は、記者が乗っているバイクや車によって追跡されたのです。

活動停止中のビートたけしは石垣島にいたのか?

逮捕中のビートたけしは、石垣島の別荘に一人で逃げ込みました。寂しかったですが、その間はたけし軍団や女性を招くことはありませんでしたので、エンターテインメント業界の友人である島田洋七を招待しました。洋七は石垣空港で朝から彼の到着を楽しみに待っていたそうです。

石垣島で「北野ブルー」が誕生。映画制作にも影響が

週刊誌の取材から逃れるための逃避行であり、ゴルフをすると目立つため、彼はビーチでゴルフクラブで貝殻を打つことで時間を潰していました。

その後、ビートたけしが監督した映画ではよく使われる上品なブルーが「北野ブルー」と呼ばれており、それは石垣島の美しい青い海のイメージで、島田洋七と訪れた竹富町の美ら海水族館の青い海もイメージとして取り入れられていると言われています。

映画「ソナチネ」では、石垣島から逃げ回るかのようにビーチで時間を潰すシーンや、釣り師の姿に扮した殺し屋の姿は、逃亡中に出会った海辺の漁師をモデルにしているのでしょう。

ビートたけしは逮捕中、勉強をしていた

その後の映画での自由な逃避行生活を生かして、小中学生のためのドリルの再学習も時々行われたため、逮捕中も活気を保っていました。

それが平成教育委員会のアイデアにつながる

自分の監禁中に勉強をしていたことから、学校教育の教科書と一般常識の基本にギャップがあることに気づき、平成教育委員会の企画をテレビ局に提案しました。その後、「平成教育委員会」という番組が始まったのです。

世界とビートたけし自身に大きな影響を与えたフライデー襲撃事件

フライデー襲撃事件は、当時テレビで人気を博していたお笑い芸人ビートたけしによる単なる暴力事件ではなく、世界が報道の自由、表現の自由、出版の自由を問い、知る権利、人権侵害の問題を考えさせる事件でした。

現在、週刊写真誌も廃刊され、わずか2つの雑誌だけが残る状況となり、かつての週刊写真誌業界でのバトルは消え去りました。

ビートたけし、フライデー襲撃事件のその後

ビートたけしと言えば、日本を代表するコメディアンであり、映画監督でもあります。しかし、彼のキャリアには謝らざるを得ない出来事もありました。

ビートたけしの逮捕

この事件により、ビートたけしは重要参考人として逮捕されました。事件当日の様子は、瞬く間にメディアに取り上げられ、社会的な非難を浴びることとなりました。

講談社との和解

ビートたけしは後に、講談社との間で和解を果たしました。この和解により、両者は法的手続きの回避、損害賠償の問題を解決することとなりました。

その後のビートたけし

フライデー襲撃事件以降、ビートたけしは多くのテレビ番組や映画に出演し、その存在感を発揮しています。彼の才能と人気は、この事件によっても揺るがされませんでした。

現在のビートたけし

現在では、ビートたけしはテレビの司会者として活動しており、様々な番組でそのユニークなトークスタイルを披露しています。また、彼の監督作品も高い評価を受けています。

フライデー襲撃事件まとめ

フライデー襲撃事件は、ビートたけしにとって一つの転機であり、彼の人生やキャリアに大きな影響を与えた出来事でした。しかし、その後の彼の努力と才能によって、彼は再びコメディ界のトップに返り咲きました。

 

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